生まれた時から住んでいたアパートは・・・・・、
玄関兼台所と六畳の畳部屋(親父に確認すればわかりますが、もしかすると4畳半だった可能性もあります)だけで大家の家から三軒繋がったアパートでした。
そして外壁はトタン。内壁はベニヤ。
ある台風の前日、親父曰く「この家、飛ばされねぇかなぁ!大丈夫かなぁ!」と言っていたのを思い出します。
トイレは・・・・・、
ボットン汲み取り式でアパートの大家と他の住民との兼用でトタン一枚のホッタテ小屋で出来ていました。
冬の時期は、風が吹くと飛んでいってしまうのじゃないかと、隙間風は当然で寒いし、特に大きい方をする時は落ち着いて入っていられなかったですねw
弟は、そんなトイレが遠かったのか、寝小便をしなくなったのが中学1年生ごろだったかな!?
電気(ライト)もなかったかな!?確か・・・
だから夜中に起きて便所へ行くという記憶がないですね。怖いし、落ちたら嫌だしw
風呂は・・・・・、
別棟のホッタテ小屋(当時はバラックと言っていた記憶があります)を親父自ら作ったそうで物置と兼用でした。
鉄工所に勤めていたのでバラックを作るのは、親父にとってお安い御用だったのでしょう。
風呂本体は、隣の大家が桶屋で桶や風呂を作っていたので安く売ってもらったそうです。
でも、偶に水漏れがするとかで、騙された!騙された!と大家にクレームを言っている姿を思い出します。
そして、その風呂に入るには、素っ裸で、アパートの台所兼玄関から風呂場を目指してダッシュします。
アパートから風呂場まで4・5m。冬は寒かったですねぇ~w
しかも裸電球一つで暗かったですね!
風呂はマキで沸かすタイプ。当時はオガライトと言ってオガクズを石油系の燃料で固めたやつがあった。
これをマキと一緒にくべる(燃やす)と、これがよく燃えた。
竹に穴をあけたやつ、それを吹いては、火を熾す。煙のせいで目が痛かった。
そういや~この竹筒。BBQの火起こしに使えるなぁ(-。-*)ボソッ
そういや~竹を使って遊び道具もよく作ったなぁ!当然親父に作り方を教えてもらいながら・・・
でも、竹馬だけは下手くそだった(^へ^;A
バラックの地べた(特に風呂の下)や玄関等コンクリートで補修する親父の姿を思い出します。
そのコンクリート用の砂を親父のカブ号(原付バイク)の後ろに乗って川原に取りに行くのが、何故か楽しかった。
川原で遊びながら袋に砂を詰める。帰りはカブ号の荷台に砂袋。その砂袋の上に私w
ちょっと話が反れましたね(^へ^;A
電化製品は・・・・・、
冷蔵庫もなかったですね。
小学生の低学年の時、先生が「冷蔵庫があるうち?」と生徒に手を挙げさせた時がありました。
手を挙げなかったのはクラスの中で数人だけでしたね!?
みんなに聞かれました。「食材の保存はどうしてるの?」
私は、「蝿帳(はいちょう)がある」と応えました。
蝿帳とは、網で囲ってある四角い箱で、食材の出し入れ用に扉があるもの。
テレビもなくプロレス中継があると近所の床屋や大家の家に見に行きました。
ちなみに、そのテレビ中継は、力道山の時代じゃなく、ジャイアント馬場の時代。
こう書いていると色々と当時を思い出します。電気料金だけは安かっただろうと予測します。
電話なんて・・・・・、
当然なかったですね。ま、めったに使う事はなかったですが・・・
ガスは・・・・・、
台所のコンロとガス釜に使用。当初はマキだったかな!
水道は・・・・・、
当初は無かったですね。
井戸から手動ポンプでくみ上げていましたね。田舎に行くと偶に今でも見かけますが・・・
手動ポンプのパッキンが劣化すると水が出ず、親父がパッキンを交換する姿を思い出します。
風呂に水を貯めるのが大変でした。
風呂を沸かすのも大変でしたが・・・風呂に入るまでは一苦労、一汗かいていましたね。
風呂は、一日置きで、しかも追い炊きだったかな!?
そして、いつの間にか井戸からモーターポンプを使って水道の蛇口をひねると普通に水が出るようになっていました。
でも地下水です。水道水じゃありません。
吉幾三氏の歌じゃないけど、うちの家庭は、無い無いずくしでしたね。
夜になると、畳の上は布団でいっぱいになります。そして家族5人が川の字になって寝ます。
就寝は、8時でした。
このアパート、私が誕生してから中学1年生になるまで住んでいました。